風呂洗剤の「こすらず落ちる!」的な売り文句、世の中にいつまでもこんな嘘がまかり通っていいのか
風呂洗剤の「こすらず落ちる!」的な売り文句、世の中にいつまでもこんな嘘がまかり通っていいのか
胡散臭いものでもきちんとした統計でも、とにかく幸福度調査みたいなアンケートは、人間の幸せと苦しみが併存することを想定してないので全部ダメだと思っている。
器の目止めを行っている
自らに明確な利益がある行為を被害者への配慮にすり替える、
私はそんなお為ごかしを真に受けるほど愚鈍ではない。
例の件…おう…
優れた表現者が必ずしも優れた人格者であるとは限らないのだけれど、『そうあるべき』という規範意識はおそらく日本には昔からあって、私はあまりそれを否定したくもない。趣味や芸は人格の向上に資するものであって初めて意味を持つという理想が、豊かな社会の形成に寄与していた面も大きいと感じるので。
私がインターネットで論を争う事を(あまり)好まないのは、ネットの論戦などというものは究極、家を燃やされると負けだからである。
夏前には変えんとな
久々にバイク乗ったらタイヤに接地感なくて死ぬ
つとに指摘していることだけれど、やっぱり憎しみとか恨みを捨てきれない人間ほど簡単に陰謀論的言説に転がる。
昨日はイーロンのSNSの方で、レコメンドのアルゴリズムに支配されることについて縷々述べた。テック企業が欲をくすぐり、怒りを煽ってユーザーをコントロールする現代においても、自律なくして本当の自由は得られないという東洋の先人たちの教えは、その鋭さを失っていない。
金継ぎ体験のために新品の器を割るのは如何なものか?という話を実家の弟としていた。ものを大事にしなくてはいけない…というような話ではなく、つまるところ私がそれを気に入らない理由は、作為を加える以上、元より優れていないと低く評価せざるを得ないというところと、鼻につく作為は興を削ぐという二点なのかなと思う。
長巻きって一度は振ってみたいな。どんな感じなんやろ?
世の中は行きつ戻りつ漸進的に良くするしかないという楽観的気持ちと、今、現に苦境に立たされている人々への申し訳なさの両方があるな。
広く隔てのない連帯を呼びかける普遍主義的立場よりも、仲間の団結を呼びかける結束主義的立場のほうがより具体的でわかりやすく、結果求心力に差が生まれたということかなと思っている。虚構に対するファクトの積み重ねも、差別的言説に対するカウンターも当然に大事なのだけれど、普遍主義のこの本来的に不利な部分への警戒がおろそかだったように感じた。
民主政に力をあたえるべく、主権者として投票を済ませてきた。
かつて東洋は、自己と他者が曖昧で、分離せず同化せず曖昧なまま調和している、そういうものを理想としていた。していたはずなのだが。
近所のリカーショップで買った手ごろなワイン、美味い。
近頃よく聞く「高見え」という言葉がなんとなく気に食わない。安くて良いものは「安くて良い」でよいのではないか。
始まった…な
Xとかいう未だに検索周りがぶっ壊れている謎のソーシャルメディア
最近鍋用に白ネギではなくて青ネギを買ってるけど悪くない。
世相を反映して優しい創作が増えた、結構なことかもしれない。ただ副作用として創作というものが備えていた批判的態度も全体的に薄れたのだなと思っている。
救いのある物語では扱えない、絶望的な悲劇でしかできない批判というのはたしかに存在すると思っている。仮にそれを安易な救いのあるストーリーに改変してしまうと、本来備えていた強い批判が薄れてしまう。
最近コーヒーを控えて抹茶を飲んでるんだけれども悪くないな。手間も豆を挽くところから始めるよりは楽だし。
仕事で使う万年筆を新調した。来月から値段が倍になるらしい。物価はどんどん上りゆく。
順当に行けば衆院選は来月下旬か
生きてるということを、観念的遊戯から実感にグッと引き戻す手段みたいなものを持ち合わせてる奴は強いよな。
茶を飲んでる
バルタン星人の神秘性みたいなものはある種、権利関係の複雑さによって保たれている側面は否定できないのが皮肉な話。初代、二代目、パワードバルタン、どれも素晴らしい。なに?バルタンJr.?五代目…?それ以降??ちょっと記憶にないっすね…。