知性を感じる人は必ず自分を疑っている、という定義はかなり気に入っている。そして僕はこれ以外の人になるべく人生の時間を割かないことが大切ではないか、と思っている。
知性を感じる人は必ず自分を疑っている、という定義はかなり気に入っている。そして僕はこれ以外の人になるべく人生の時間を割かないことが大切ではないか、と思っている。
どんよりがいけない。どんよりとは無力感に近い感覚。答えは身体を動かすこと。人生は根本的には単純だ。単純すぎて脳には見えない。
他人がすべてどうでもいいと思うことに熱く注目できることが、ほぼ才能である。ただし自己愛抜きで。
かなしみも喜びも、すべては許されている。
生きるコツはおそらくこれしかない。現実(外界)よりもいつも一歩だけ感覚(内界)が先んじていることだ。
この世界は一層神話に近づいていると感じる。もちろんだが、飛躍か崩壊か。そのどちらにも目を配っていなければ大人の思考力ではない。
私はいつもさみしくてイライラしている。優しい気持ちになるためには自分を忘れる必要がある。
また追求追求の国会だろうか。ウンザリする。しかしこれはもしかしたら罠かも知れない😆
悪魔的とは所有のことではない、なぜか所有を彼らも望まなかった。
贅沢に本来的には所有は関係がない。しかしこれを言うととてもいやらしい人間だというレッテルを貼られる😆
競争は実は虚しい。なぜなら最後は必ず奪われるからだ。奪われない勝利は無い。
それでも我々は競う、競うことが宿命であるかのように。
それには何か深い意味がある。たとえば誰かが見ているかのような。
月輪観の深さが今朝解る。月とは自らの心であり、自らの本質である仏の心。それは昼間は隠れ、寝静まる夜に出現する。
ただし日本においてだけ☺️
エプスタインファイル📄は正常化バイアスを測る指標になるだろう。
もっとも恐ろしいことは、人間がいかにわけがわからないカオスかということを経験しないうちに、人格形成してしまい閉ざしてしまうことだ。
多くの思想は少数の例外を除きこれだと思う。
やはり刷新は絶望的。異なる集団がとって変わる。
やはりリベラルは思想を刷新しなければならない。でなければ、自己矛盾の塊になる。そしてもはや矛盾が外側に染み出しているので、誰からも毛嫌いされた。自己矛盾とは自分だけは見えない。目も耳も内側を向いていないから。
つまりもしリベラルが生き残るならば、それは現リベラルか一人もいなくなってからだろう。
今大いに燃えているポスト、確かに凄まじい分析。この大衆無視さはご本人には見えない。というか、理論こそが現実だとする左翼の本質。これは批判ではありません。納得の事実。違う分野においてなら、私も陥るかも知れない或いは過去に陥っていたと思います。
説得は効かない、という前提を忘れてポストしてしまったので早速削除。でもやはり、批判は,自分のライフスタイルへの適度な反芻なしには成立しないことはここに記す。
一切の今の非難好きなリベラル政治家なしで、リベラル集団を作れないものだろうか。
いやそれよりは自民党が、リベラル政党に変容しつつあるのだからそれで良いのか。
この、人生におそらく二度とない状況を説明する言説が様々噴出していて、それはそれで素晴らしいのだが、書いている方々も、読者さんも、きっと何か今一歩足りない感じがしておられるに違いない。
それはたぶん宗教性に違いない、と私は思う。
何故ならそれこそは一つの禁じ手だからだ。近代日本ではなかなか書けないのだ。それは山本七平さんの日本教などをせめて読んでいないと、すべて都市伝説として冷笑カテゴライズされてしまう。そういう日本の寒波ほとお寒い現状。
しかしトランプ現象が始まった時から、裏のピーターティールまで、そして今アメリカを席巻する、エプスタインファイルに至るまで、すべては宗教心理絡みなのだ。
つまりリベラルは真のリベラル以外消滅する。そして真のリベラルはおそらく自民党として再生する。
しかしそれは現自民党の左派ではない。現自民左派とは時代遅れの旧リベラルにすぎず、真リベラルではない。つまり自民党左派も消滅する。
そして自民党も自ら次第に変化する、つまり真リベラルとしてである。それは対立軸を生む保守勢力いや保守思想の確立によって、つまりその影響によってリベラル思想化する。
リベラルは,美しいが、実体のない霊性の如きものだからである。霊性とはつまり古代からの日本的共感のことである。
このままでは野党が結束することはない、特に野党の多数派は。先ず自らがリベラルではない、それもかなり徹底的にないということを、思い定めなければ何も始まらないだろう。つまり、自らがリベラル的生き方をするのでは無く、他人にそして社会にそれを強いて来たことを理解しなければならない。
しかしそれはほぼ無理なことだ。何故なら他人に強いるという生き方は、その人間の根の部分にあるものだからだ。
自己の生き方の否定は、それほど簡単では無い。
デカフェはそれらしい器です。この後、ジョジョ第三部の続き読んでまどろみ、夜は日本の将来を静かに見定める予定。
信念とは燃費の悪いエンジンのようなもの。コスパ社会では必ず裏まで疑われる。その孤独を愛する為の武器を教養と呼ぶ。だから、教養は人生を充実させたい人には必要なのだ。
信念とは、たとえば愛の結果であり、けっして実体ではない。従って信念をもってと言っても、その燃料が無ければまったく起動しない。信念自体を培えるわけが無く、愛や楽しさや探究心にひたむきに火を灯す以外にはない。
もちろん私もわかっていないのだが、今回の選挙についての解説が基本大衆が感情的で幼いということを前提にしているところは、まったく違うと思う。大衆の無意識は時としてとても深い。そのことを大切にすること。
遂にAIが経済界の再編成の嵐🌀を起こすね。
いよいよ精神的に混乱する時節になっている。温かさが季節にもどるまでは一歩一歩行きたい。つまり、自分に戻れる時間を大切にしたい。
人間は扇動に弱い。しかし扇動の洗脳の技術が進みすぎているのか、僕たち大衆がバカすぎるのかについては、ぜひ後者であって欲しい。前者ならば白旗🏳️だから。そして、たぶん後者が正しい。バカである原因は知能の問題ではなく、欲と怒りの問題であるから。