Claudeの文章能力すごいな。余計な感情的なやり取りもないし
読まんといかんものがたくさんある気がするが、まあ、オラは今年はフーコーをがんばって読もうと思う
まあ、とはいえ現実的には厳しいだろうけど。宙吊り状態を享受できること自体特権的だし、そもそもその特権性を「認識論」として語れること自体にも、また別の特権が潜んでいる。
TERFとトランスの対立は「女性の定義」論争として捉えると袋小路になる。必要なのはむしろ本質主義ではなく認識論の話 (「女性らしさを持っている」ではなく「女性として世界を経験し、経験される」)であり、経験の内容と様式が異なる複数の軸が、単一のカテゴリに収まろうとしている構造として読み直す必要があるのでは
そして、定義を確定してから連帯するのではなく、定義を宙吊りにしたまま動くことがすでに政治的実践なのだと思う。歴史的に「女性」の境界確定がつねに誰かを排除する操作として機能してきたことを鑑みれば、定義の宙吊りは曖昧さへの逃避ではなく、その操作への抵抗として積極的に引き受けられるものかもしれない
正確に言えば、父は新左翼運動をリアルタイムで経験している世代ではないのだが(当時まだ小学生)、だからこそ憧れがあったのかもしれない。父が連合赤軍について話す時、「お気楽な同世代とは違って、自分の命すら厭わない覚悟が俺にはある」みたいな自意識を感じる時がある。恐らくそういうタイプの同世代はそこそこいたのだろう。
純化されたナラティブだけが残っていた世代のように感じる
面白いものが流れてきた。
僕の父も希死念慮をこういったマインドに変換するタイプのノンポリだったけれど、彼が好きなものはむしろ連合赤軍のドキュメンタリーだった。
この世代的な違いについて考えると、「自分の死の後に続く何かにコミットする」という大きな物語の喪失があるのだろうと思う。個人の死が何にも接続されていない。そして手段と目的の逆転を恥じていない。
喜んでるイラン人たちの動画がたくさん流れてくる。なんとも
トランプ早く逮捕してくれ
塾が大学になったらガチでアツい(;´д`)
特攻(ぶっこみ)の拓
鏖(みなごろし)の武丸
生堀り(なまぼり)のタイチ
大学退学して同じ大学(他学部)を一般で受験したどうかしてる友達がちゃんと受かってて安心!
これ、もしかしたら「本物らしさ」が「本物」を解体する面白さみたいなものと関係しているのかもしれん。
シスヘテロに擬態することそれ自体のユーモア、みたいな
すげー言うな日経
キッショ
『男らしさの終焉』を読んでいるのだが、「男性性へのカウンター」を意識した時点で女装はさほどラディカルなものではなくなると思っちゃうな。男性でないもの」として女性を位置付けてしまうという意味で男性中心的に感じる。
むしろ、ペリーの倒錯的な欲望やユーモアそれ自体の方が面白い。何を批判しているのかわからないユーモアの方が、他人を安心させないという意味でラディカルだよね
認識論の話をもっとすべきなんだろうな。勉強不足で嫌になるわ
ディズニーシーに久々に行った。かつての恋愛規範マシマシの「ディズニー」というイメージから一新されていて面白かった。特に夜のパレードは、アナ雪、リメンバーミー、モアナといった、ロマンティックラブに回収されない物語が前面に押し出されていた印象。
ロマンティックラブイデオロギーに依拠できなくなった現在、「ディズニーらしさ」とは何かと考えると、それはあの恐ろしいまでの「普遍性」の演出にあるのだろう。ディズニーはしばしば欺瞞的だと批判されるし、実際アメリカ的無神経さの塊なのだが(明確にイスラエルを支援しているし)、良くも悪くも、ここまで堂々と「普遍的な綺麗事」を提示し続ける存在は他にないだろうな。
自分のギャグセンがよくわからないのだが、例えばこの画像の下部分の黒いところだけをトリミングして単に「真っ黒な画像」としてどこかに流用する、みたいなものがすごくツボなんだよな。なんなんだろうなこれは
フォルダの最新画像がこれのため、他人にスマホを見せられない
シュルレアリスムの本を読んでみてる。
最近自分の若さや未熟さが嫌だなと思う時が多くて、必要以上に焦ってしまっている自覚があるんだけど、その理由を考えたときやっぱりSNSが大きいような気がしてきた。
全てがポジショニングに見えてしまってしんどく感じる。即時的に何かリアクションしなくてはならないような、そういう圧がやっぱりどのSNSにもあると思う。
これは一理あるな。一方的に作り上げられた、ケアすべき対象としての「陰謀論者」を、社会的地位の高い女性が(彼の文脈に乗った上で)説き伏せる、という構図には問題がある。一方で、エマ・ストーンの役柄がいわゆる"WOKE"として描かれていたのは明らかなわけで、言わんとしていることはそこまで単純じゃないんじゃないかなとも思う。だからこそあのラストなんだろう。(デウスエクスマキナが性癖なのもあるんだろうけど)
とはいえ、現在進行形の社会問題を、(それと読み取れる表現方法で)単純化・戯画化すること自体に問題があるのは否定できないな。繊細さに欠けてはいたかな。
そろそろ次のバイト探さねば
『クィアな時間と場所で』より デイヴィッド・ベルが「農村的なものをエロティックにする(Eroticizing the Rural)」で便利なことに「大都市セクシュアリティ」と名づけたようなものの優位と、また、それに伴って現れる、農村を本質的に「悪意ある」あるいは「牧歌的」とする表象とを指し示している。 合衆国でゲイ/レズビアンについて理論化するに際して文化的に優位的なものとして大都市セクシュアリティを考えることは、大都市規範という術語を生み出す。この術語は、ゲイ/レズビアンの主体性についての標準化を進める多くのナラティヴにおける「都会」と「可視」の混同を明らかにするものだ。そのようなナラティヴは都会環境へと「出てくる/カムアウトする」クローゼットに隠れていた主体について語るが、そうするとこの都市の環境はどうやら、他のゲイ/レズビアン/クィアのコミュニティとの関係で性的自己を完全に表出することを可能にするものということになる。大都市規範的ナラティヴは、移動のストーリーをカミングアウト・ナラティヴの上にマッピングしているのだ。カミングアウトのストーリーが時間的軌道として機能しがちで、その軌道においては長い抑圧の期間の後で開示の期間が起きる一方で、「田舎」から「街」への移動は空間的なナラティヴであり、そこでは疑心や迫害、秘密状態の場所での生活を主体が耐えたのちに寛容の場へと移る。それぞれのナラティヴが同じ構造を持つのだから、小 さな町から大きな都市への物理的旅路を、クローゼット状態からカムアウトしていて誇りある状
態への心理的旅路と同一視するのは容易だ。ハワードが『メン・ライク・ザット』において評するように、農村のクイアの移動についてのほとんどの説明において、農村的なものは都会的セクシュアリティにとってのクローゼットとして機能させられている。しかし実際には、少なくとも男性にとっては農村の環境においてクイアな性的実践は至るところにあり、そのことは、小さな町と広く開けた農村地域において、クローゼットとは異なる何らかの認識論が性的慣習を支配していることを示している。現実には、農村のもしくは小さな町から、多くのクイアたちは必要に駆られて移るが、後に都会地域を切に離れたがり、小さな町に戻る。そして多くが、クローゼットのモデルの誤りを示す、小さな町での生活における愛とセックス、そしてコミュニティについての複雑なストーリーを物語るのだ。 大都市規範は、合国近代の性的アイデンティティの空間化を支配する都会/農村の二項対立において農村的なものが劣位の項であることを明らかにする一方で、合衆国における非大都市のクィア・セクシュアリティと世界の他の部分での非大都市セクシュアリティとか奇妙にも似通った形で構築されていることに光を投げかける
これは本当にそうで、同様に「トランスジェンダーのトランジション」でないトランジション、あるいは、「トランスジェンダーの恋愛」でない恋愛、そして性的実践について目を向ける必要があると思うし、その意味で「地方」に目を向けることは、ここで言うカミングアウト・ナラティブを考えることに繋がると思う
端的に(とっても身も蓋もなく)言うと、すくなくないヘテロなトランスジェンダー女性にとって"レインボープライド"的な空間は居心地が悪いのだ。しかしではヘテロなトランスジェンダー女性はどこへ行けばいいのか。そのひとつの答えとしてわたしは"地方"があると思っている。