まったく同じことが、ちまたで言われている女性同士のケア、あるいは(そんなものは成立していないとも、固有のものともいわれている)男性同士のケアにも言える。そのケアというコミュニケーションや関係性の内外で、力の渦はどんな感じに渦巻いているのかにゃー。
まったく同じことが、ちまたで言われている女性同士のケア、あるいは(そんなものは成立していないとも、固有のものともいわれている)男性同士のケアにも言える。そのケアというコミュニケーションや関係性の内外で、力の渦はどんな感じに渦巻いているのかにゃー。
ケアされない状態、ケアされない人が問題ってのはありますよ。でも、私が今すごく気にしているのは、ケアされている状態、ケアしあっている状態と称するものが、本当はどういう権力関係なのか、どういう支配関係なのか、そのコミュニケーション状況や関係性における力の流れです。たとえばヤングケアラーみたいなものが発生しているその時、そのケアはどういう権力関係や支配関係に基づいて成り立っていますか。
もしさあ、ケアって呼ばれる概念の大半がゲゼルシャフト的な福祉やサービスの外側にあって、家族とか友達とかある種の縁故に根ざした営み、そして諸権利や金銭兌換性の通用しない営みなんだとしたら、それって良いものとして語っていいようなものなんかなー。
カウンセリングは、まだしもゲゼルシャフトみのある概念であることが多いように思う。でもケアは、「行政福祉サービスとしてのケア」はともかくそれ以外のケアはゲマインシャフトみのある概念であるようにみえる。少なくとも券売機にカネを突っ込んでコミュニケーションの対価を得るとか、権利を行使して行政からサービスを引き出すとかいったものの外側に、ケアなるものの茫漠とした領野が広がっているようにみえる。そこに存在する"ナチュラルな"ケアの正体、実態がいまもってよくわからない。
心理療法や精神療法と等価であるとみなせる場合のカウンセリングは、まあ私にだってわかる。そうじゃないカウンセリングも巷にはたくさんある様子だが。ではケアは? ケアが、社会福祉政策の一端として専門家によって提供される「サービス」だとしたら、それは心理療法や精神療法に近い位置づけになるだろう。でも、昨今ちまたで言われているケアが、そういう「サービス」に当該しているとはあまり思えない。ましてや「女性同士のケアがあり」「男性同士はケアしていない」みたいな話のケアともなると、それはいったいなにを指すのか。あるいはヤングケアラーという言葉が用いられる際のケアとはなんなのか。
カウンセリングもよくわからない言葉だが、ケアもたいがいよくわからない言葉だな、テクニカルタームとしてのそれも、世俗に流通するそれも、わかったようでわからない。
雄蜂たちの挽歌
中野収の『カプセル人間論』をだいぶ昔に読んだので忘れかけているけど、あれが実感を持って読まれるようになったのは、イヤホンとウォークマンの組み合わせでメディアが個人単位になったことが大きいと思う。
お茶の間で家族でテレビを見ることと、ウォークマンで自分用に好きな音楽を聴くことの対比がないと、あれは分かりにくいのかも。
現代では音楽を聴くにしてもウォークマンのようにオフラインで聴く体験自体が珍しくなっているから、さらに分かりにくい。
そういう意味では、95年のエヴァのシンジのウォークマンと、02年のほしのこえの携帯電話は、90年代半ばから2000年前後の時代の変化を反映していて面白い。
「トランプ大統領、精神病院と療養所の復活を命じる大統領令に署名。街の浄化へ。」というほんとか嘘かわからないツイートを見かけた。 もし、本当で、本当に実施されるとしたら、あとはわかるな?
しばらく三暗刻狙い。
一方、最初の2~3日で人民解放軍が台湾本土に上陸できなかった場合は? 米国・日本ともに、この場合は「たぶんやる」んだろう。短期的にみるなら、こちらのほうが日本人の血が流れる蓋然性が高い。短期的にみるなら(繰り返しだが短期的にみるならば、だが)こちらのほうが深刻で、いわゆる台湾有事なるものがインパクトをもって日本に迫るといえば、まずは、こちらだろう。
PLAが比較的短い時間で台湾本島に大量の陸軍部隊を展開するに至ったら、そのとき米国・日本にできることも米国・日本がしなければならないことも、たぶん限られる。「そんなことはない」と決断する胆力が根性にあるとはあまり思えない。実際には台湾の指導層が山岳地帯で持久戦に入ったとしても、雲霞のような陸軍部隊が台湾に上陸してしまった時、その軍事的のみならず政治的な意味は巨大だ。短期的には日本人の血があまり流れないシナリオかもしれない(台湾やPLA兵士の血があまり流れないとは言ってない)。
中国-台湾・米国・日本によって戦われる「有事」が本当に発生した時に何が起こるのか? ちょっとわからない。台湾が最初の2~3日を耐久し得るのか、関連して比較的上陸地点の限られている台湾への揚陸作戦をPLAがやってのけられるのか? 揚陸作戦が成功し、とめどもなく解放軍兵士が台湾本土に流れ込んでくる事態となったら、日本はもちろん米国も割と困るというか……やりようがなくなる気はする。何万何十万のPLA兵士が上陸した後に、米国や日本が積極的にそれを駆逐しにかかるとはあまり思えない
しかし、台湾有事に実際に日本が関与する羽目になったとして、具体的に何がどういう手順で起こるんだろうか。あまりしっかり考えたことがない。手頃な論説を読んだ記憶もない。まったく見えない感じがする
「これからの時代と社会では、たくさんのことを諦めなければならないんだって僕言いましたよね?」 (???)
命がかかっていなくても、社会適応すらかかっていなくても、なんらか、ゲーム盤の上に立ち続けていられるかいられないかの瀬戸際に立たされているのが人間ってものじゃないですか。
斑鳩を下げて、ドルアーガの塔をイン、のほうがいいかもしれない。ダライアスバーストを下げてマインクラフトをイン、という手もある。それでもこういうのは9つに絞るのが大切なのだろうから、清書はどうしたものか、な感じだ。
自分を作った9本のゲーム、だよね、好きなゲームでなく、自分を作った9本のゲーム。そうなると、このあたりかなぁ
日用品のいくつかがちょうど無くなったのでまとめ買いのシーズンなんだが(楽天セールでもあるし)、今のタイミングでまとめ買いすると、「パニック買いの老人」とみられてしまうのが少し嫌だな
かつて信奉していたインターネットユーザーとしてのディシプリンをゴミ箱に投げ捨て、犬人間として生きるワンワンワールド
若いなら、後先考えず・身の程もわきまえずに、権力や影響力の獲得を目指し、実際にそうしてしまって爆発四散するのが似合いと言われたら、そうですね、と思わなくもない
ただ、「使いこなせるめいっぱいの分量の権力や影響力」ってのがわかりづらいし、ちょうど良い量と自分が欲しがってしまう量が乖離してしまう人も少なくない。もちろん、使いこなせるめいっぱいの権力や影響力に手が届かない人も多い。 あと、「使いこなせるめいっぱいの分量の権力や影響力」って捉え方が、年寄り臭いってのは否定のしようがない。
権力や影響力は使いこなせるめいっぱいの分量があったほうがいいよ、使いこなせる範囲内であれば、人望や信用はあったほうがいいし、顔は良いほどいいし、仕事や遊びもできるほどいいし、フォロワー数は多いほうがいい
ただ、それがある程度は実地に即している、と思われる部分もある:アンダークラスが世代再生産が実質的にできないこと、象徴闘争を切り結んでいくための経済資本や文化資本や社会関係資本が乏しいこと。20世紀の段階ではそれを言ってしまうのは早計だったかもしれないが、2020年代においてアンダークラスの定義に当てはまっている高確率で象徴闘争を切り結んでいくためのリソースを欠いていると推測される。 (そも、日本の場合、20世紀の段階では経済的移動や社会的移動の可能性は現在よりは広く開かれていたし、だからこそ今時は日本でもアンダークラス論が出てきたってのもあるだろう)
ところが、アンダークラスについて定義を確認すると、少なくともその原義として社会的/経済的移動が困難になっている層、というのがある。それをそのまま現代の象徴闘争に当てはめると、アンダークラスはその定義からして、経済的にだけでなく文化的社会的にも成り上がることができない人々、ということになってしまう。だから象徴闘争の今日的議論において、アンダークラスの語義をそのまま飲み込むと「アリーナの外の人」といった位置づけになってしまう。
日本は労働者階級~中間階級(プチブル階級)~支配階級といった意識が比較的薄く、そうでなくても現代社会はクラシックな階級意識よりもサブカルチャーや経済的与件に基づいた象徴闘争が戦われがちで、ブルデューが述べた時代そのままではない。 象徴闘争は、だから階級意識が乏しいなかで戦われる。その意味では、象徴闘争レベルの戦いとそれによる社会的移動は案外自由になっているとは言える、のだけど、
アンダークラスは、いわゆる階級意識、旧来の労働者階級やプチブル階級などと異なる、という話は、私のなかではそのまま、現代の象徴闘争においてアンダークラスがどのような立ち位置に留まるのか、という話に直結する…… blog.tinect.jp?p=90825
感性としては「宣教師が1人殺されたから軍艦で都市を砲撃してやる」というのとあまり変わらず、現代は新たなる19世紀なのであろうなあ
これ+製油所アタックの政治的な効果のでかさ、みたいな話か。これを即座に思いつかなかったのは不明だ x.com/kazu_fujisaw...