自他境界が弱いからこそ、それが明確な物語の世界に拘泥するのでは? 主体が私じゃなければ笑い話にならないよ
自他境界が弱いからこそ、それが明確な物語の世界に拘泥するのでは? 主体が私じゃなければ笑い話にならないよ
怒ったり不満を述べている人に心を寄せねばならないと思ってしまうので、そういう感想ばかり見て辛く悲しくなっても見るのをやめられないし、それでもそのような気持ちになれない事がどうしようもなく申し訳なく怖くなってしまう
意図的に何かをする時間以外はほぼずっと超かぐや姫! の曲を聞いて泣いている。月がいずれ翳るように飽きもいずれ来る。それまでのよすががたまたまこのような形をしているだけだ
誰かの為に歌っていなくても、誰かの代わりの歌になる事はある。2020年代の私の視点をまとめるとそうなる予感はする。私は忘れるから無敵だ
明々後日からは近くの劇場でもやるようなのでちゃんとそこも行くよ
Netflixを嫌うばかりにもうNeflix半年分くらいの費用が映画館で消費されている。でもまぁ、選べる内は選びたい体験を選ぶ方がいい。そんなに大事なものがないからこそ
明後日は酒席なので超かぐや姫! は明日かな
依存が治るとは思っていないのでせめて合法なものに依存したいものだね
年間100本くらいイベントに行くとお金が全く貯まらない代わりに投資で失敗もなくなる。原資がない強さだ
しばらく音楽を聞かないでいた人生だったので、リヴァイヴァル企画は何でも新曲だ
名前に区名が含まれる子と含まれない子がいると思ったら、調べると駅名だったり地名だったりはするので関係はあるみたいだ
そもそも日本の市場はボラティリティが大きいので
私は忘れっぽいし、忘れっぽいから意図的に記憶もなくせる方だけど、だからこそ忘れられない物語に惹かれる面はあるのかもしれない
これは境界がなくてよくない見解とは思うけど、それでも自ら振り付けを考えようとしていたかぐやの姿ではないと感じてしまうんだよな。これだって公式だからそれに疑問を持つ事自体が時代じゃないと知ってはいるんだけど
どこまで行っても私は音楽の人ではなく物語の人だなぁ
蒼穹のファフナーは間違いなく強く影響を受けたアニメで、それは"祝福"の概念の形成が大きいと思う。多義的であるとは知っているけれど、それでも私の祝福がある
超かぐや姫! は茂木紳太郎のナナシスに見ていたものと言われたら否定するのは難しいかもしれない
GBCでは仁菜が代わりに怒っているみたいな感覚があったけど、CPK! ではかぐやが代わりに歌っているという感覚はあるかもしれない。どちらも誰かの歌なんだけど、前者は歌という手段を獲得していくのに対して、後者は歌という時間が目的になっていくとは言えるかもしれない
楽曲の売り方も面白くて、CD版はアニメバージョンとしてアニメの効果音などが入ったものを含めておいて、ストリーミング版は作中の時系列に合わせて効果音なしの方を出している。多分、ライヴカットの音源が好きな人向けに前者を用意している
物語の感想ではなく、曲の感想をベースに書いた方が書きやすい気がしてきた
この曲まではずっと泣いているけど、ここから完全に涙が引く。踊れと言っているようなEDMアレンジでしとしとしてはいられないし、OKとも言っているんだから、縮こまって泣いてなんていられなくなる
www.youtube.com/watch?v=G89I...
本当は考察動画でバズればいいんだよね。自分でどう感じたかなんて金にもならんよ
自分が何故そのように感じたか分析する癖があるけど、あまりに愚かな一人遊びなんだよね。クリエイター信仰の強い世界でやるべき事じゃない
自分の根源というか、源泉みたいなものを考えると、恐れを除けば悔しさなんだろうな。絵を描けたり曲を作れたりしたらいいなとは思うけど、思いを言葉にできない時の悔しさみたいなものはない。いつだって自分の文章は気に入らないが、それでも分を書き続けているのはそれが原因だろう。本当は動機や理由といった立派なものがあるべきとは思うけど、そうした規範意識は恐れから作れているという構造だろう
Kindle Unlimitedの元を取る為に本を読むって本当にいいのかと思わなくもないが、バズったコンテンツをバズった通りの感想を抱こうと頑張るよりはかなり楽かもしれない
利用するブログが増えた結果、記事作成の息抜きに別記事の資料を読む状況になってしまい、目的がよくわからなくなってきた。今年の売上は10年前からの分を足してもまだ入金金額にも満たないのに……