ルッカ市のやぐらには、今日もなお、おお きな文字で自由 LIBERTAS という語が書かれているけれども、そのことから、そこではある個人 が、コンスタンティノポリスにおいてよりもおおくの、自由すなわちコモンウェルスへの奉仕の免除をもっているとは、だれも推論しえない。
ルッカ市のやぐらには、今日もなお、おお きな文字で自由 LIBERTAS という語が書かれているけれども、そのことから、そこではある個人 が、コンスタンティノポリスにおいてよりもおおくの、自由すなわちコモンウェルスへの奉仕の免除をもっているとは、だれも推論しえない。
それは、「わたくしの王国はこの世のものではない」という、われわれの救世主自身のことばに反する。もうひ とつは、かれが、かれ自身の臣民にたいしてだけでなく、世界の全キリスト教徒にたいしてキリ ストの代理 Vicar だということで、
かれらはそのこと(多数であることによって、共通の敵に対しても 相互の侵害に対しても、なんの防衛も保護も期待しえない。そのわけは、かれらが、自分たちの 強さの最善の利用と適用に関する意見において、混乱しているために、 たがいにたすけあわない で妨げあうからであり、
なぜならば、かれらの召命は、命令によって人びとを統治することではなく、 かれらにおしえ、論拠によってかれらを説得し、 そして、 おしえられた教義をかれらが信奉する か拒否するかを、かれらの考慮にまかせることなのだからである。
「あなたがたの目のまえ にある村にはいりなさい、そうすると、牝ろばがその子といっしょにつながれているのをみるで しょう、そのつなをといてここへつれてきなさい」、ということばは命令である。なぜなら、か れらの実行の理由が、かれらの師の意志からひきだされるからである。
ある人びとは、これより先にすすんで、自然法を、地上での人間の生命の維持に役だつ規則としてではなく、死後の永遠の至福に到達するのに役だつ規則として、考えようとする。
(ニケア)Bだからヘブライ人は、つねに存在動詞をもちいるのだし、あらゆる命題 において、(弁証家のいわゆる)叙述をあらわすのに、繋辞をつかうかわりに、名辞を別の名辞に つけくわえるのにとどめていた。
そのばあいには、公正を規定する自然法は、「その権利の全体、そうでなければ(交 替して使用するとして)最初の占有が、くじによって決定されること」をもとめる。なぜなら、 平等な分配は、自然法によるものであり、平等な分配のためのほかの手段は、考えられないからである。
しかも各人が別べつにかれの固有の領において忠告するなら ば、その人はその仕事をもっともよくおこなうのであって、それは、テニスにおいて、適切な位 置をしめる有能な補助者たちを使用する人とおなじである。
(ニケア)A 審判の日に、地上に生きている人間の魂は、雲へそして天へと昇らされるであろうが、そ れらは霊的魂によって(もし少なくとも魂がそれ自体で存在する実体であるならば)生気をあたえ られた、霊的身体をもつであろう。
(そして、罪をゆるしたりそのままにしておいたりすること》罪の赦免と保留の権力はまた、解除と拘束の権力ともよばれ、ときには、天の王国への鍵とよばれるが、それは、洗礼をしたり 洗礼を拒否したりする権威の、 一帰結である。
(ニケア)Bなぜか。 神の霊が神でなく、息子および父と同一の神なのではないのか。
《公共的犯罪とはなにか》 最後に、ほとんどすべての犯罪において、ある私たちに対してだ けでなく、そのコモンウェルスに対しても、侵害がなされているのだから、おなじ犯罪が、コ モンウェルスの名において告訴されるばあいには、公共的犯罪とよばれ、
したがって、そ れは、法によって禁止された事実行為)の遂行 Commission や語の発言、または法が命じること の回避 Omission にだけでなく、侵犯する意図すなわち決意にも、存しうる。なぜなら、法をや ぶろうという決意は、その法の実施を監督する人への、ある程度の軽蔑なのだからである。
そのわけは、かれの命令の理由はかれ自身の意志だけであって、各人の意志の本来 の対象は、かれ自身にとってのなんらかの善(利益なのだからである。 忠告とは、人が、「これをせよ」とか「これをするな」とかいいかれがそれをいう相手にそれがもたらす便益からかれの理由をひきだすばあいである
そして、 すべての生きている被造物については、それが壁や鎖で監禁されたり拘束されたりしているばあ いに、われわれはそういうのだし、また水については、それが堤防や容器によってそのなかに保 持され、 そうでなければ、よりおおきな空間にひろがるだろうというばあいに、
この人びとはまた、 狡猾や自分の隣人たちをあざむくことによるすべての犯罪を、おかしやすい。かれらは自分たち の企図が、あまりに巧妙で感知されないとおもうからである。これらは、かれら自身の賢明に関 する虚偽の推定の結果だと、私はいうのだ。
つぎのことについて、主よ、あなたの召使をおゆるし下さい。すなわち、 わたくしの主人が、 そこで礼拝をするためにリンモンの家にはいるとき、わたくしの手によりか かり、そしてわたくし自身も、リンモンの家で拝礼をします。
そして、アリストテレースとおなじように、キケローやその他の著作家たちも、かれらの政 学説を、ローマ人の意見のうえにきずいたのであるが、
妖精たちはおなじようにして、おさない 子どもたちをゆりかごからつれだし、かれらをうまれながらのおろかものにかえるといわれる。 それだからふつうの人びとは、かれらをいたずら小僧とよぶのであり、危害をくわえがちなのである。
というのは、もし神が完全にけがれがな いことをもとめるとすれば、すくわれる肉はありえないからである。
なぜなら、諸法を 解釈することは、現存の王国の行政の一部であり、それは使徒たちが所有するものではなかった からである。
現在ではキリスト教徒が神からのは なしかけをきく唯一の人格なのである。しかし、世にでた虚偽の予言者がたくさんいるので、他 の人びとはそういう霊について(聖ヨハネが第一の手紙の四章一節でわれわれに忠告しているよ うに)「かれらが神のものであるかどうか」を検討すべきなのである。
けれども、それらは反対に、すべての司教が、管轄権をもつばあいはかれらの 政治的主権者たちからうけることを証明しているので、わたくしはそれらについての詳述を、 除外したいとおもわない。
(それをかれらは、まえにピリポの洗礼によっては、うけていなかった)、ということ はあきらかである(一節)。なぜならば、聖霊の授与のためには、かれらの洗礼が、教会の代行者 によってでなく、ことばの代行者によって、実施あるいは確認されることが必要だったからである
人が捕虜であるか、敵の力のもとにあるばあいには、(そして、かれが敵の力のもとにあると は、かれの身柄またはかれの生活手段がそうであるばあいである)、もしそれが、かれ自身のあや 28 まちなしにそうなるのであれば、法についての義務はなくなる。
自分たちの権力を。 ひじょうにちいさく限定したすべてのコモンウェルあっというまたは集殿へと、おいられるのである。 <番組の私的幹線)第二に私は産的な諸学説という毒から生じる。コモン ウェルスの熱 気がする。そのうちのひとつは、「各私人が善悪の諸行為の判定者であるということ」である。
《奇蹟がなくなれば予言者たちもなくなり、聖書がかれらの地位にとってかわるしたがって、 いまでは奇蹟がなくなったことからすれば、われわれには、だれか私人が啓示または霊感だと主 張するものを、承認するよりどころとなるしるしは、なにものこされていないし、
したがって、行為者や代表者がもつ権威を知らないで、かれらと信約するものは、かれ自身の 危険において、それをするのである。なぜなら、だれも自分が本人でない信約によって義務づけ てられはしないし、またその帰結として、かれが与えた権威に反して、あるいはそれをはなれて、 なされた信約によってもそうである。
そしてしたがって、かれらは、だれかあたらしい君主を選挙 することができないのであり、各人は、自分を保護するのにもっとも有能だとおもうものに、そ れぞれ自己を服従させる平等の権利を有し、